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大背美流れ(おおせみながれ)
明治11年12月24日早朝、太地鯨方は、小雨まじりの東の風が強く荒模様の海へ総勢184名・19隻で出漁しました。この年は近年にない不漁で、このままでは正月も迎えられないという従業者たちの不安と切迫感が無理な出漁を促していました。
沖に出て準備を整え待っている船団に午後2時頃、山見から「鯨発見!」の合図があり全員が欣喜雀躍しました。
しかし、発見した鯨は、未だ嘗て見たこともない大きな子連れの背美鯨で、そのような巨鯨は当時の技術ではしとめるのは難しく、昔から「背美の子連れは夢にも見るな。」といわれるほど気性が荒々しく危険であるといわれていたため、山見の両檀那の意見は、この鯨を捕るか否かで対立していましたが、鯨は刻一刻と近付いてきていました。
激論の末、4時近くに「直ちに捕獲にかかるべし。」と断は下され、急いで燈明崎の前に網が張られましたが、鯨は湾内の方に向ったため更に張り替えたところ母鯨がわずかに網にかかり、驚いた鯨はすさまじい勢いで暴れた後、東南の沖へと逃げ出しました。
冬の日は落ち、激しさをます風雨の中、船団も懸命に追い、その巨鯨との激闘は夜を徹して続けられ、翌朝10時、ついにしとめることができました。
いつの間にか空は晴れ、海も穏やかになっている中、食料と水は絶え精魂使い果たした男達は再び必死の力をふりしぼり獲物を持双船に繋ぎ帰路に着きましたが、見上げるばかりの巨鯨のため力漕しても船は進むどころか逆に潮流に引かれて沖に向いついに黒潮の流れに入ってしまい熊野の山は遠くなるばかりで、お互いに声を出して励まし合い渾身の力を込めて漕ぎ戻そうとしましたが、飢餓に陥った体は既にその力を失い、そのままでは助かる見込はなくなり、一同緊急協議の結果、命を懸けてしとめた一家を救うための価千金の獲物を切り離すより術なしと判断し、係留綱を断ち切りました。離れていく巨鯨を眺める男達の目からはとめどなく涙が溢れるばかりでした。
生きなければならない、全員でそれぞれの船を繋ぎ固め再び必死の思いで漕ぎ帰ろうとしましたが、すでに櫓を持つ力さえ失い、洋上を渡る師走の風は身を刺す寒さで、日が暮れていくのにつれて波もうねり、互いに衝突し浸水する船も出始めたため、午後4時頃、ついに各船を結び止めていた綱を断ち切ることになりました。
解き放たれた船は強風怒涛に巻き込まれ、老人から10才にも満たない少年までが乗る船は、漂う木の葉のように海中に沈み、それは将に地獄の様そのものでした。記録によるとその月の30日、出港して7日目に九死に一生を得て伊豆七島神津島に流れ着いた8名を含め、生存者はわずか13名とされ、餓死12名、行方不明89名という未曾有の大惨事となりました。

突如として100余名の働き手を失ったこの小さな漁村は死の村と化し、家の前を幾日も泣きわめきながら走る妻たちがいたといわれています。
「大背美流れ(おおせみながれ)」 と呼ばれ今も語り継がれているこの悲劇と、町民の窮地を救うために命を賭けた漁師たちの高貴な心を、長く人びとの心にとどめておくために、平見に上る坂道の中ほどに「漂流人記念碑」と刻まれた碑があります。捕鯨の歴史の上で決して忘れることのできない悲劇と、海に殉じた多くの人々の霊の安からんことを念じる思いは永久に消えることはないでしょう。


 古式捕鯨蒔絵(太地町くじらの博物館所蔵)  クリックで拡大

 
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